2009年夏、40年にわたりフィッシングロッド業界をリードしてきた伝説のロッドデザイナー、ゲイリー・ルーミスは、世界最高品質のブランクを再び世に送り出すため、息子でありコンポジット・エンジニアであるブラッド・ルーミスとゼネラル・マネージャーのジョン・ボイルと共に立ち上がった。新たな思いを具現化するノースフォークコンポジット社の誕生である。ここでは、名実ともに世界で最も多くのブランクをデザインしてきたデザイナー、ゲイリー・ルーミスの半生を振り返りながら、彼のパーソナリティから新たに会社を立ち上げるに至ったモチベーションまで、七つのエピソードを通して、ゲイリー・ルーミスの素顔に迫ってみたい。
1964年、スチールヘッドが遡上するワシントン州のとある川辺で偶然起こった小さな出来事がゲイリー・ルーミスをロッド作りの世界へ導いて行くことになる。
海兵隊を退役したばかりのゲイリーは、その年の5月、お気に入りの川でスチールヘッドのランを狙っていた。当初、ゲイリーは、冬用のタックルで、順調に釣果を上げていた。しかし、季節が進行し、夏の遡上が終焉を迎えつつある中、ゲイリーは、ある一つの変化に気付いていた。それは、冬のタックルの効力が次第に下がりつつあることだった。長年、機械工作に携わって来た経験から彼には、より多くの成果を得るには、より良い道具が必要であること、そのためには、まず、どの様な道具が必要なのか、それが理解出来ていることが重要だと、とわかっていた。以下は当時を振り返るゲイリーの言葉である。
5月になって水位が下がり始めると、スチールヘッドは、同じ場所にいるもののバイトして来なくなった。そこで、私は、プレゼンテーションを変えてみることにした。具体的には、ライトラインを使うことだった。ラインを細くすればバイトは増えた。しかし、6ポンドまで細くすると、バイトこそ得られるもののブレイクが途端に増えた。私はこの問題を様々な角度から考えた。そして、一つの結論に至った。それは、あのスチールヘッド特有のロケットダッシュがブレイクの原因ではなく、首振りが原因ではないかと、そして、もし、フライロッドのようなしなやかで吸収性に優れたロッドがあれば、ライトラインであっても魚が捕れるのではないかと。
そこで、早速、街のタックルストアに行き、グラスファイバー製の7番のフライロッドを買った。それにバッドセクションを補強し、リールシート、グリップを取り付け、さらに、ガイドも交換した。これで6ポンドラインも躊躇なく扱える10フィート半のスピニングロッドが出来た。この成果は明らかだった。
それから暫くして、さらに川の水位は下がり、透明度も増し、スチールヘッドはますます口を使わなくなった。私は、4ポンドラインの必要性さえ感じ始めていた。問題は、4ポンドラインを扱うには7番のフライロッドがパワフル過ぎることだった。そこで、私は、再びタックルストアに行き、今度は、4番/5番用のフライロッドを買った。晩夏を迎える頃、私は、その川で唯一スチールヘッドを釣るアングラーになっていた。しかも、一日1尾とかではなく、4尾から5尾を釣り上げていた。この圧倒的な釣果は次第に噂となって広まって行った。
ある日の夕方、いつものように川から上がり車に向っていると、一人のロコ・アングラーが近寄ってきた。そして、こう尋ねてきた「なぜ、お前だけ釣れているんだ?他の誰も釣れていないのに」と。そこで、私は、彼にタックルを見せた。でも、彼はそれを間近に見ても最初は信じようとはしなかった。だから言ったんだ「知っているよ、ここのところずっとオレのことを見ていたのをね。勿論、スチールを釣り上げたところも見ていたよね。で、今、君はオレのタックルを見ている。にも関わらず、それを信じようとしないのかい?」と。渋々彼は納得した。そうしたら今度はこう言うんだ「そのロッドは何処で売ってるんだ」と。だから言ったんだ「これは自分で作ったのさ」と。そうしたら今度は「そのロッドを100ドルで売ってくれ」と言うのさ。実におかしかったね。何故って、当時の私の給料は週に97.20ドルだったからね。1週間働いて稼げる以上の金額を彼はオファーして来たんだ。でも、私はこう言ったんだ「ノー」とね。なぜならそれはそもそも売り物じゃないから。そしたら50ドル上乗せしてきた。再び「ノー」と言ったよ。で、最終的に彼は200ドルを提示してきたんだ。さすがに売ったよ。そして、その足で例のタックルストアに行き、また同じフライロッドを買ったんだ。そして、その晩、前と同じようなカスタマイズを施したんだ。で、次の日、また釣り場に行くと、今度は別の男が現れてこう言うんだ「そのロッドを売ってくれ」とね。だからまた200ドルで売ったんだ。家に帰ってからこの話を妻にしたのさ、どうやってわずか2日で4週間分を稼いだかをね。これが私のロッド・ビジネスの始まりかな。
残念ながらゲイリー・ルーミスは、最初にグラファイト素材のフィッシング・ロッドを作った人物ではない。しかし、ゲイリーは、グラファイト・ロッドを普及させていく段階において、極めて重要な役割を担ったのであった。以下は当時を振り返るゲイリーの言葉である。
1973年、シカゴで開催されたAFTMAショーで、ライバル会社が世界に先駆けグラファイト・ロッドをリリースしたんだ。プロトタイプを一目見て「これだ!」と思ったよ。シビれたね。そのロッドは今まで見てきたどのロッドよりも軽くて、張りがあって、高感度だったんだ。瞬間的に悟ったよ、ラミグラスが進むべき方向はこっちだってね(当時ゲイリーはラミグラスに勤務)。でも、オーナーから賛同は得られなかった。だから、世の中の良き従業員と同じように、私は、反対意見を受け入れずに、どうしたらその新素材をモノに出来るのか探求を始めた。最初の研究開発費はわずか250ドルだった。瞬間的に無くなってしまったけどね。だから、ラミグラスをまた説得したよ、これは会社として追求するに相応しいベンチャーだと。結果、予算は5000ドルまで増えた。でも同時に翌年のAFTMAショーに6本のグラファイト・ロッドを出展するはめになったけど。これが最初のハードルだった。
私はまずシアトルの図書館に行き、その新素材について書かれた文献を探した。見つかったのはたった一つだけ。それも、かなり曖昧なもので、ただボーイング社の関与をほのめかすものだった。そこで、私は、ボーイング社の従業員通用口に行き、出入りしている全ての従業員に尋ねたんだ「誰かグラファイトという素材について知っている人はいませんか?もしくは、知り合いにそういう人はいませんか?」とね。結局、何も手がかりが得られないまま最初の一日が過ぎた。次の日もまた同じようにその通用口に立っていると、一人の男が近寄ってきて「君は昨日もここにいたよね?」と言うんだ。そこで「そうだよ。この調子でいくと明日もここに立つつもりさ」と答えた。そしたら、その男は私にこう言うんだ「エンジニア達の多くが使う別の通用口があるからそっちに行ってみるといいよ」とね。早速、その通用口に行ってみた。そこで、ハリー・マティソンという一人の紳士に出会ったんだ。彼は当時世界に4人しかいなかったコンポジット・エンジニアの1人だったんだ。その彼がグラファイトという素材について話をしてくれることになった。
私は、まず彼をディナーに誘った。そして、朝食に誘った。さらに、ランチにも誘った。グラファイト製ロッドをデザインするための支援を取り付けるまで、こんな日が数日続いた。最終的に彼は他のエンジニアも巻き込み、我々は開発を始めた。当時、グラファイトは航空機のウィングにのみ利用されている極めて特別な素材だった。その設計には、ディフレクション・コードと呼ばれる設計値が利用されていた。このディフレクション・コードにより、試作品を都度作ることなく、コンピュータ上でフレックス特性を見極めることが出来た。だから、まずはこの基礎データを集めることから始めた。試行錯誤は6ヶ月に及んだ。そして、我々は、32モデルを作り出した。残念なことに、それらのロッドは、私がかつてAFTMAショーで見た他社のグラファイト・ロッドほど軽くはなかった。また、フィーリングもいまひとつだった。その競合のグラファイト・ロッドは、同じ長さ、同じパワーのグラスロッドに比べて1/6の軽さであったが、我々のロッドは1/3にとどまった。当時の私は知らなかったのだが、実は、この時、その競合他社は、ブランクの強度に大きな問題を抱えていた。結果として、ディフレクション・コードを得るために費やした我々の時間と労力は、その後のゲームを優位に進めるための大きな武器になっていた。
我々のグラファイト製ロッドは、競合のロッドほど軽くはなかった。しかし、強度は優っていた。当時、その競合他社が抱えていた問題は、コンポジット・エンジニアをデザイン・フェーズに巻き込んでいなかったこと、そして、グラファイトはグラスの半分以下の強度しかない、という事実に気付いていなかったことだった。つまり、そのライバル会社は、ロッドの重量を1/6にしたが、同時に強度を1/12にしていたのであった。
当時、その競合他社は、釣り具業界における神的な存在であった。が故に、その強度問題は業界全体に大きな影響を与えていた。当然の如く、我々は苦戦した。だから、グラファイト・ロッドをリリースした最初の年は、ロッドを売ろうとはしなかった。ロッドではなくグラファイトという素材を売ることに専念した。
展示会においても我々は、何はともあれロッドの強度をデモする必要があった。そのため、私は、ちょっとした来場者参加型のコンテストを計画した。それは、6インチ四方のボックスを作り、その中に5ポンドの鉛を入れ、そのボックスを9フィート、8番ラインのフライロッドでリフトアップし、ボックスの中のオモリの重さを当てる、というものだった。賞品はそのロッドとリールのセットだった。
水曜日から日曜日まで、合計800名以上の挑戦を受けた。そのうち80%近くの人は、ボックスをピクリと動かすことさえ出来なかった。20%の人は、何とか持ち上げることが出来た。そして、1%未満の人だけがリフトアップすることが出来た。ショーも終盤となった日曜日の午後、一人の体の大きな紳士が我々のブースにやって来た。私は彼に例のロッドを見せた。そして、リフトアップにチャレンジするよう促した。彼はロッドに触れ、それを私に戻しながら「いいロッドだ」と言った。私は言った「そのボックスをこのロッドで持ち上げてみて下さい」と。すると彼はこう返して来た「無意味にロッドを折りたくないんだ」と。そこで、私は言った「そのロッドは垂直方向で8ポンドまでの負荷に耐えることが出来ます」と。すると、彼は聞き返してきた「垂直方向にか?」と。そこで私は「えぇ、垂直方向です」と答えた。そして再び彼にチャレンジするよう促した。ちょうどその時、私達の周りには、300人あまりの人々がいた。実は、その時、私はその人物が誰だったのか知らなかった。彼は最初そのボックスを持ち上げるのに苦戦していたが、渾身の力をこめた時、それは宙に浮いた。結果、地面から5フィートまでリフトアップすることが出来た。ボックスが地面から離れる時、彼は大きな声で叫んだんだ「一体このロッドはどうなっているんだ!」とね。
あとで知ったことだが、その紳士は、私の少年時代のあこがれ、名球会入りした、かのテッド・ウィリアムスだったんだ。結局、テッドは、その年に13本ものロッドを買ってくれたんだ。
素材特性を十分に理解した上で、デザインすれば、グラファイトでも十分な強度を得ることが出来る、これがわかったんだ。こうしてラミグラスは、カーボン・コンポジットと構造力学のエキスパートを巻き込むことにより、実用強度を備えたグラファイト・ロッドを製造する世界で最初のメーカーになったんだ。