Gary’s 7 Episodes

2009年夏、40年にわたりロッド・インダストリーをリードしてきた伝説のロッド・デザイナー、ゲイリー・ルーミスは、世界最高品質のブランクを再び世に送り出すため、息子でありコンポジット・エンジニアであるブラッド・ルーミスとゼネラル・マネージャーのジョン・ボイルと共に立ち上がった。新たな思いを具現化するノース・フォーク・コンポジット社の誕生である。ここでは、名実ともに世界で最も多くのブランクをデザインしてきたデザイナー、ゲイリー・ルーミスの半生を振り返りながら、彼のパーソナリティから新たに会社を立ち上げるに至ったモチベーションまで、七つのエピソードを通して、ゲイリー・ルーミスの素顔に迫ってみたい。

1964年、スチールヘッドが遡上するワシントン州のとある川辺で偶然起こった小さな出来事がゲイリー・ルーミスをロッド作りの世界へ導いて行くことになる。

アメリカ海軍を退役したばかりのゲイリーは、その年の5月、お気に入りの川でスチールヘッドのランを狙っていた。当初、ゲイリーは、冬用のタックルで、順調に釣果を上げていた。しかし、季節が進行し、夏の遡上が終焉を迎えつつある中、ゲイリーは、ある一つの変化に気付いていた。それは、冬のタックルの効力が次第に下がりつつあることだった。機械工作に長年携わって来た経験から、彼には、より多くの成果を得るには、より良い道具が必要であること、そのためには、まず、どの様な道具が必要なのか、それが理解出来ていることが重要、とわかっていた。以下は当時を振り返るゲイリーの言葉である。

5月になって水位が下がり始めると、スチールヘッドは、なお同じ場所にいるもののバイトして来なくなった。そこで、私は、プレゼンテーションを変えてみることにした。具体的には、ライトラインを使うことだった。ラインを細くすればするほど、確実にバイトは増えた。しかし、6ポンドまで細くすると、バイトこそ得られるもののブレイクが途端に増えた。私はこの問題を様々な角度から考えた。そして、一つの結論に至った。それは、あのスチールヘッド特有のロケットダッシュがブレイクの原因ではなく、首振りが原因ではないか、と言うものだった。そこで、もし、フライロッドの様なしなやかなショック吸収性に優れたロッドがあれば、ライトラインであっても魚が捕れるのではないか、と考えたのだった。

そこで、早速、地元のタックルストアに行き、グラスファイバー製の7番用フライロッドを購入した。それにバッドセクションを補強し、リールシート、グリップを取り付け、さらに、ガイドも交換した。これで、6ポンドラインでも躊躇なく扱える10フィート半のスピニング・ロッドが出来た。この成果は明らかだった。

それから暫くして、さらに川の水位は下がり、透明度も増し、スチールヘッドはますます口を使わなくなった。私は、4ポンドラインの必要性さえ感じ始めていた。問題は、7番用のフライロッドは4ポンドラインを扱うにはパワフル過ぎたことだった。そこで、私は、再び例のタックルストアに行き、今度は、4番/5番ライン用のフライロッドを購入した。晩夏を迎える頃、私は、その川で唯一スチールヘッドを釣るアングラーになっていた。しかも、一日1尾とかではなく、4尾から5尾を釣り上げていた。この圧倒的な釣果は次第に噂となって広まって行った。
ある夕方、いつものように川から上がり車に向って歩いていると、一人のロコ・アングラーが近寄ってきた。そして、こう尋ねてきた「なぜ、お前だけ釣れているんだ?他の誰も釣れていないのに」と。そこで、私は、彼にタックルを見せた。でも、彼はそれを間近に見ても最初は信じようとはしなかった。だから言った「知っているよ、ここのところずっとオレのことを見ていたのをね。勿論、スチールを釣り上げたところも見ていたよね。で、今、君はオレのタックルを見ている。にも関わらず、それを信じようとしないのかい?」と。渋々彼は納得した。そうしたら今度はこう言うんだ「そのロッドは何処に行ったら買えるんだ」と。だから言ったんだ「これは自分で作ったのさ」と。そうしたら今度は「そのロッドを100ドルで売ってくれ」と言うのさ。実におかしかったね。何故って、当時の私の給料は週に97.20ドルだったからさ。私が1週間働いて稼げる以上の金額を彼はオファーして来たんだ。でも、私はこう言ったんだ「ノー」とね。なぜならそれはそもそも売り物じゃないからね。そしたらさらに50ドル上乗せしてきた。再び「ノー」と言ったよ。で、最終的に彼は200ドルを提示してきたんだ。さすがに売ったよ。そして、その足で例のタックルストアに行き、また同じフライロッドを買ったんだ。そして、その晩、前と同じようなカスタマイズを施したんだ。で、次の日、また釣り場に行くと、今度は別の男が現れてこう言うんだ「そのロッドを売ってくれ」てね。だからまた200ドルで売ったんだ。家に帰ってからこの話を妻にしたのさ、どうやってわずか2日で4週間分を稼いだかをね。これが私のロッド・ビジネスの始まりかな。

残念ながらゲイリー・ルーミスは、最初にグラファイト素材のフィッシング・ロッドを作った人物ではない。しかし、ゲイリーは、グラファイト・ロッドを普及させていく段階において、極めて重要な役割を担ったのであった。以下は当時を振り返るゲイリーの言葉である。

1973年、シカゴで開催されたAFTMAショーで、ライバル会社が世界に先駆けグラファイト・ロッドをリリースしたんだ。プロトタイプを一目見て「これだ!」と思ったよ。シビれたね。そのロッドは今まで見てきたどのロッドよりも軽くて、張りがあって、高感度だったんだ。瞬間的に悟ったよ、ラミグラスが進むべき方向はこっちだってね(当時ゲイリーはラミグラスに勤務)。でも、オーナーから賛同は得られなかった。だから、世の中の良き従業員と同じように、私は、反対意見を受け入れずに、どうしたらその新素材をモノに出来るのか探求を始めた。最初の研究開発費はわずか250ドルだった。瞬間的に無くなってしまったけどね。だから、ラミグラスをまた説得したよ、これは会社として追求するに相応しいベンチャーだと。結果、予算は5000ドルまで増えた。でも同時に翌年のAFTMAショーに6本のグラファイト・ロッドを出展するはめになったけど。これが最初のハードルだった。

私はまずシアトルの図書館に行き、その新素材について書かれた文献を探した。見つかったのはたった一つだけ。それも、かなり曖昧なもので、ただボーイング社の関与をほのめかすものだった。そこで、私は、ボーイング社の従業員通用口に行き、出入りしている全ての従業員に尋ねたんだ「誰かグラファイトという素材について知っている人はいませんか?もしくは、知り合いにそういう人はいませんか?」とね。結局、何も手がかりが得られないまま最初の一日が過ぎた。次の日もまた同じようにその通用口に立っていると、一人の男が近寄ってきて「君は昨日もここにいたよね?」と言うんだ。そこで「そうだよ。この調子でいくと明日もここに立つつもりさ」と答えた。そしたら、その男は私にこう言うんだ「エンジニア達の多くが使う別の通用口があるからそっちに行ってみるといいよ」とね。早速、その通用口に行ってみた。そこで、ハリー・マティソンという一人の紳士に出会ったんだ。彼は当時世界に4人しかいなかったコンポジット・エンジニアの1人だったんだ。その彼がグラファイトという素材について話をしてくれることになった。

私は、まず彼をディナーに誘った。そして、朝食に誘った。さらに、ランチにも誘った。グラファイト製ロッドをデザインするための支援を取り付けるまで、こんな日が数日続いた。最終的に彼は他のエンジニアも巻き込み、我々は開発を始めた。当時、グラファイトは航空機のウィングにのみ利用されている極めて特別な素材だった。その設計には、ディフレクション・コードと呼ばれる設計値が利用されていた。このディフレクション・コードにより、試作品を都度作ることなく、コンピュータ上でフレックス特性を見極めることが出来た。だから、まずはこの基礎データを集めることから始めた。試行錯誤は6ヶ月に及んだ。そして、我々は、32モデルを作り出した。残念なことに、それらのロッドは、私がかつてAFTMAショーで見た他社のグラファイト・ロッドほど軽くはなかった。また、フィーリングもいまひとつだった。その競合のグラファイト・ロッドは、同じ長さ、同じパワーのグラスロッドに比べて1/6の軽さであったが、我々のロッドは1/3にとどまった。当時の私は知らなかったのだが、実は、この時、その競合他社は、ブランクの強度に大きな問題を抱えていた。結果として、ディフレクション・コードを得るために費やした我々の時間と労力は、その後のゲームを優位に進めるための大きな武器になっていた。

我々のグラファイト製ロッドは、競合のロッドほど軽くはなかった。しかし、強度は優っていた。当時、その競合他社が抱えていた問題は、コンポジット・エンジニアをデザイン・フェーズに巻き込んでいなかったこと、そして、グラファイトはグラスの半分以下の強度しかない、という事実に気付いていなかったことだった。つまり、そのライバル会社は、ロッドの重量を1/6にしたが、同時に強度を1/12にしていたのであった。

当時、その競合他社は、釣り具業界における神的な存在であった。が故に、その強度問題は業界全体に大きな影響を与えていた。当然の如く、我々は苦戦した。だから、グラファイト・ロッドをリリースした最初の年は、ロッドを売ろうとはしなかった。ロッドではなくグラファイトという素材を売ることに専念した。

展示会においても我々は、何はともあれロッドの強度をデモする必要があった。そのため、私は、ちょっとした来場者参加型のコンテストを計画した。それは、6インチ四方のボックスを作り、その中に5ポンドの鉛を入れ、そのボックスを9フィート、8番ラインのフライロッドでリフトアップし、ボックスの中のオモリの重さを当てる、というものだった。賞品はそのロッドとリールのセットだった。

水曜日から日曜日まで、合計800名以上の挑戦を受けた。そのうち80%近くの人は、ボックスをピクリと動かすことさえ出来なかった。20%の人は、何とか持ち上げることが出来た。そして、1%未満の人だけがリフトアップすることが出来た。ショーも終盤となった日曜日の午後、一人の体の大きな紳士が我々のブースにやって来た。私は彼に例のロッドを見せた。そして、リフトアップにチャレンジするよう促した。彼はロッドに触れ、それを私に戻しながら「いいロッドだ」と言った。私は言った「そのボックスをこのロッドで持ち上げてみて下さい」と。すると彼はこう返して来た「無意味にロッドを折りたくないんだ」と。そこで、私は言った「そのロッドは垂直方向で8ポンドまでの負荷に耐えることが出来ます」と。すると、彼は聞き返してきた「垂直方向にか?」と。そこで私は「えぇ、垂直方向です」と答えた。そして再び彼にチャレンジするよう促した。ちょうどその時、私達の周りには、300人あまりの人々がいた。実は、その時、私はその人物が誰だったのか知らなかった。彼は最初そのボックスを持ち上げるのに苦戦していたが、渾身の力をこめた時、それは宙に浮いた。結果、地面から5フィートまでリフトアップすることが出来た。ボックスが地面から離れる時、彼は大きな声で叫んだんだ「一体このロッドはどうなっているんだ!」とね。

あとで知ったことだが、その紳士は、私の少年時代のあこがれ、名球会入りした、かのテッド・ウィリアムスだったんだ。結局、テッドは、その年に13本ものロッドを買ってくれたんだ。

素材特性を十分に理解した上で、デザインすれば、グラファイトでも十分な強度を得ることが出来る、これがわかったんだ。こうしてラミグラスは、カーボン・コンポジットと構造力学のエキスパートを巻き込むことにより、実用強度を備えたグラファイト・ロッドを製造する世界で最初のメーカーになったんだ。

過去の経験からゲイリー・ルーミスにはわかっていた。ブランクの品質と耐久性は、グラファイト・マテリアルをマンドレルにロールする際のマシンの能力に大きく依存していることが。

自らの名を冠したG.Loomis社を1980年に創業した時、ゲイリー・ルーミスは、まず生産設備の刷新から着手した。幸いにもキャベラス社の親友デニス・ハイビーから資金提供を受け、ゲイリーは、新たな生産ラインを完成させることが出来た。しかも、同時にキャベラス社から1日280本のブランクオーダーを受けた。ゲイリーは、その注文を追い風に生産を拡大していった。多くの人はゲイリーをブランク製造のエキスパートと認識しているが、その認識は正しくない。ゲイリーは、ブランク製造だけではなく、ブランクを製造するための生産設備作りに関してもエキスパートなのである。以下はゲイリーの言葉である。

新しい生産設備のデザインはまさに試行錯誤の連続だった。まず、私は、このインダストリーから学んだ全て、機械工として学んだ全て、そして、ブランク作りにおける過去の経験の全てを注ぎ込んだ。ブランク作りには、グラファイト・マテリアルを鉄製の芯であるマンドレルに高い圧力で巻きつけていく工程が欠かせない。当時、業界標準とされていたこの巻きつけ圧力は40psi(psi:pound per square inch圧力の単位)だった。

グラファイト・ペーパーをマンドレルにロールする工程において、意識しないと、グラファイト・ペーパーとその上に塗られた樹脂の間に小さな気泡を封入することになる。この小さな気泡は様々な問題を引き起こす。だから、この気泡を取り除く必要があり、そのために圧力が必要となるんだ。でも、これは言葉で説明するほど簡単なことじゃない。なぜなら、グラファイト・ペーパーをマンドレルにロールする時、ミクロで見ると、ペーパーの底部は縮み、ペーパーの表面は伸びるからだ。この異なる現象をうまくハンドリングしていく必要があるんだ。

フープ・ストレスと言われている張力がある。円筒形の物体に圧力が働く時、その断面は円から楕円へと変化し、同時に元に戻ろうとする。この力がフープ・ストレスだ。チューブラー構造のブランクの断面を想像してほしい。圧力を加えると、円は歪み楕円となる。そして、さらに圧力を加え続けていくとブランクは折れる。実はこの折れの原因は、ブランク内に取り残された小さな気泡だ。気泡は、ブランクとして本来備わっている復元力を大幅に減退させる。だから、より高い圧力でロール出来る設備が必要であったし、その生産設備そのものをデザインし直す必要があったんだ。

当時、私がデザインしたそのマシンは、最大で250psiでカーボンペーパーをロールすることが出来た。しかも、ブランクの一部ではなく、全体に同じ圧力を均等にかけることが出来たんだ。だから、当時のG.Loomis社では、どのグラファイト・ロッドよりも軽くて、強くて、張りがあって、感度が高くて、しかも、耐久性に優れたブランクが作れたんだ。

現在、ノース・フォーク・コンポジット社で使用するロールマシンは、エンジニアの日々のバージョンアップにより、精度とパワーがさらに倍以上に高められた業界最高レベルのプレス能力を備えたものだ。仮に同じ弾性率のカーボン・マテリアルを使っていたとしても、他社と比べて仕上がりが全く異なるのは、このエンジニアリング・テクノロジーがあってこそなのである。

マテリアルからエンジニアリング・テクノロジー、そして、イクイップメントまで、ゲイリーは、今もなお、より良いものを日々追い求めているのである。

1980年初頭、G.Loomis社は、自社向けブランクとキャベラス社向けのブランクを生産していた。しかし、ゲイリーが作り出すブランクの品質の高さが知れ渡るやいなや、全米中のロッドメーカーがこぞってゲイリーにブランク製造を委託するようになった(より正確に言えば、全米のみならず世界中のロッドメーカーから注文を受けていた)。以下は当時を振り返るゲイリーの言葉である。

一時期、私は、アメリカの全てのロッド・メーカーのブランク製造を請け負っていたんだ。それはまさに最高の日々だった。当時付き合っていた仕事仲間は今でも良き友達さ。だから、今回、ノース・フォーク・コンポジットで彼らともう一度仕事が出来てうれしいよ。それに、メイド・イン・アメリカを提供することにより、国内で新たな雇用機会も創出したかった。これもノース・フォーク・コンポジットを始めた理由の一つさ。

1997年まで、ゲイリーは、G.Loomis社を世界で最も成功した最も有名なブランク・メーカーであり、ロッド・メーカーに育て上げた。しかし、1995年、彼の人生を大きく変える不測の事態が彼の身に突然降りかかってきた。

95年に前立腺癌と診断されたんだ。信じられなかった。あまりのショックに一時医者に行くことさえ止めた。でも彼らは私が癌を患っていることを科学的に証明出来た。彼らは私にこう言ったんだ「単に癌を患っているだけでなく、既に転移も始まっている」と。そして、放射線治療が始まった。放射線治療に続き、彼らは、抗癌剤も投与した。そして、経過を見た。結果、PSA値は下がった。しかし、元の数値に戻るのにそんなに長くはかからなかった。そして、私は宣告されたんだ「余命18ヶ月」とね。

家族のために何か残すとするならば、今この段階で会社を売った方が良いだろうと思ったんだ。だから、1997年に決めたのさ、G.Loomis社を売るって。複数の会社からオファーを貰ったよ。何社かはシマノよりも高い値段を付けてきた。でも、私はどうせ売るならシマノに売りたかった。なぜなら、60年代からずっとシマノのリールを使い続けていたからね。それに、世界最高のリール・メーカーが世界最高のロッド・メーカーを所有していた方がいいだろうって考えたんだ。しかも、シマノは約束してくれたんだ、売却後5年間は今のビジネスを一切変えないって。私は、従業員の雇用機会も同時に確保したかったからシマノへの売却を決めたんだ。こうしてG.Loomisはファミリーの一員となったのさ。

この時、買収契約の一環として、シマノは、私に3年更新で新生G.Loomis社のコンサルタントとして働くようオファーをくれたんだ。もっとも、最初、彼らは5年更新を提示してきたのだけれど。だから、私は彼らにこう言ったんだ「私はそんなに長くはないだろう」ってね。でも、結果から言うと、10年以上に渡り、この関係は続くことになったのだけれど。

余命18ヶ月と宣告された時、人は、好きなことをやりながら、日々出来るだけ楽しく過ごすよう努めるのではないであろうか。ゲイリー・ルーミスと彼の妻スージーの場合、それは、釣りと同じ位好きなハンティングにでかけることだった。先の診断結果を聞くやいなや、彼らはアフリカ行きを決めた。

誕生日にアフリカでハンティングをして過ごしたかった。だから、ザンビアに行ったんだ。5日間かそこらだった。そこに滞在している間、スージーは、私にバースデイ・プレゼントを渡したかったんだろう。ある夜、キャンプに戻ると、多くの人が集まっていたんだ。そこには、祈祷師と呼ばれている男と、通訳である宣教師がいた。彼らは歌い、太鼓を叩き始めた。すると、その祈祷師と呼ばれている男はほどなくしてトランス状態に入った。祈祷師は、宣教師に向って何かを言った。宣教師は私に尋ねてきた「祈祷師があなたの体の上に手を置いても構わないか」と。

トランス状態から戻ってきた時、祈祷師は汗だくだった。祈祷師は宣教師を通じてこう言ってきた「あなたの下腹部には病気がある」と。そこで、私は言った「誰から何かを聞いたのか」と。すると彼は「何も聞いていない。それに、そんなこと前もって知り得る手段も私達にはない」と。さらに続けて「明日、私の家にボトルを三つ持って来なさい。あなたのための治療薬を用意しておく」と言ったのだった。

次の日、我々は、祈祷師の住む村へ行った。祈祷師の家の中に見慣れたものは何一つなかった。ただ、粘土で出来た鉢が3つ用意されていた。彼はその鉢から私のボトルにそれぞれ液体を注いだ。注ぎ終えると、祈祷師は、残りの液体を彼の助手に飲ませた。それが毒見であったのか、それとも、宗教的な儀式であったのか、私にはわからない。そして、祈祷師は宣教師を通じてそれぞれの服用法を説明した。

その液体を見下ろしながら私は妻に尋ねた「どうしたらいいものか」と。妻はこう言った「彼らアフリカ原住民は何千年も前から薬の調合を研究し続けているはずだから服用してみてはどう?」と。その言葉を信じ、私は服用した。服用は16日間に及んだ。それは私達の夫婦間ではある種のジョークにさえなっていた。

旅行から戻り、医者に行くと何故かPSA値は7.2から6.5に下がっていた。その時は医者には何も話さずにいた。そこから2ヶ月後、PSA値はさらに5.8まで下がっていた。その時も何も話さずにいた。そこからさらに2ヶ月後、PSA値はなんと4.2まで下がっていた。今度ばかりは医者から聞いてきた「信じられない。一体何が起こっているんだ」と。そこで、私はアフリカで出会った祈祷師の話と例の液体の話をした。話を終えた時、医者は私にこう言った「そのボトルの中身を何だったのか是非確かめたかった」と。

まるでナショナル・ジオグラフィックの記事のような話だが、この話はゲイリー自身に実際に起こった話である。インフルエンザの特効薬として知られているタミフルの原料は、実は中華料理の香辛料の一つとして知られるハッカクから抽出されたものだそうだ。こうした自然界に存在する動植物から抽出した成分で作られている薬品を生物薬というのだが、きっとゲイリーが服用した「3つの液体」にも、我々がまだ知らない癌にとても効く生物薬が含まれていたのかも知れない。いずれにしても、こうして癌を克服したゲイリーは、今もワシントン州ノース・フォーク・リバーの傍らで日々世界最高のブランクを作り出すべく、デザインに精を出しているのである。

G.Loomis社のコンサルタントを務めていた10年間、ゲイリー・ルーミスは新たなミッションを見つけることになる。以下は当時を振り返るゲイリーの言葉である。

良い10年だった。なぜなら、サーモンの保護活動に多くの時間を費やすことが出来たからだ。私はサーモンが大好きだ。こんな私と5人の釣り仲間で、1995年にフィッシュ・ファースト(www.fishfirst.org)という団体を立ち上げた。この団体は、ルイス・リバー系ノース・フォーク・リバーの支流であるセダー・クリークにサーモンを復活させることが目的だった。

その年、遡上するコーホー・サーモンの数は32匹まで減少していた。そこで、私達は、まず、ワシントン州動植物保護局と話し合いの場を持った。そして、生息流域の環境改善、栄養素の添加、人口孵化を提案した。動植物保護局官は尋ねた「どうしてセダー・クリークのような死んだ川に興味を持っているのか」と。私達は言った「もし本当に死んでいるのなら、こんな事は言い出さない。確信があるんだ。だから、我々のやりたいようにやらさせてくれないか」って。その後、何回かのやりとりの後、保護局は了承してくれたんだ。

10年を費やした。そして、2005年には、かつて32匹しか確認されなかったコーホー・サーモンがなんと16250匹まで増えたんだ。コーホーは復活したのさ。でも、この成功は長くは続かなかった。一度ギルネッター(網を用いた漁猟者)に見つかると、すぐさま網を入れられた。そんなこともあり、我々は、コマーシャル・フィッシングに従事している人達にも働きかけて行く必要性を感じていた。

我々は、全米、地域、地区レベルで、漁獲ポリシーに影響を与えていく方法を調査した。結果として、メキシコ湾沿岸から東海岸にかけて大成功を収めているグループに行き着いた。それはテキサスに拠点を置く、沿岸保護協会(Coastal Conservation Association (www.joincca.org))だった。我々は彼らにコンタクトし、彼らの活動範囲をここパシフィック・ノースウェストまで広げるよう依頼した。首都ワシントンDCにおけるロビー活動の成果もあり、今では、ワシントン州とオレゴン州だけでも10000を超えるCCAメンバーがいる。

ゲイリーは、決して現在の10000人というメンバーに満足はしていない。彼は、破壊的なコマーシャル・フィッシングからサーモンやスチールヘッドを守っていくため、CCAワシントン支局とCCAオレゴン支局を一つにし、より強固な組織を創り上げようと考えている。これを実現していくために、彼は「最低でも50000人のメンバーが必要だ」と言う。この目的を果たすため、彼は今も全米各地で講演活動を続けている。

2009年夏、ゲイリー・ルーミスと彼の息子でありノースフォークコンポジット社のチーフ・エンジニアであるブラッド・ルーミス、そして、ゼネラル・マネージャーのジョン・ボイルは、世界最高品質のブランクを製造するため、会社を立ち上げた。それがワシントン州のノースフォーク・リバーのほとりにあるノースフォークコンポジット社である。エピソード7では、この新たな会社でゲイリーとゲイリーのチームがこれから何をしようとしているのかを紹介する。

2009年4月にG.Loomis社が2009年末をもってブランク単体での販売を中止すると発表したんだ。これがブランク製造を再開しようと考えた直接的なきっかけだった。勿論そこには、かつてG.Loomis時代にビジネスをともにした多くの友人達からのリクエストも追い風としてあった。さらに、アメリカ国内の雇用機会を少しでも守りたいという気持ちもあったんだ。

我々の目的は、真のパフォーマンス・フィッシング・ツールと呼ぶに相応しいブランクをデザインすることだ。多くのロッド・メーカーは、残念なことに釣り人を釣るためのロッドをデザインしている。しかし、我々は、純粋に魚を釣るための最高のロッドを作りたいと思っている。

最高のフィッシング・ツールをデザインするために、我々は、まず、その釣りに精通したベスト・フィッシャーマンにコンタクトする。なぜなら、彼らほどそのロッドに求められる要件を正しく、そして、深く理解している人はいないのだから。そして、試作を繰り返しながら、煮詰めて行く。幸いにして我々には世界中の優れたフィッシャーマンにネットワークがあるからね。

他の産業と同じように、釣り具業界も常に変化している。意味のある変化もあるが、中には、表面だけの宣伝文句に終始しているものもある。事実、新素材と銘打って今日まで色々なマテリアルが出現してきたが、その殆どは性能向上に貢献しなかった。ただ、新素材はマーケティングのネタにはなるけどね。ノースフォークコンポジット社では、G.Loomis社時代と同様、パフォーマンスを発揮する確かなマテリアルと確かな製法しか採用しないつもりだ。

勿論、これは、現状に留まり続けるということではない。私は、一度、この業界を離れ、そして今また戻ってきた。幸いにして、G.Loomis時代から続くパートナーシップは今でも良好。先日もそんなパートナーの一人を通じて、興味深いマテリアルに出会った。今は専らそのマテリアルをテストしている。今のところテストは順調。そのマテリアルを使えば、今まで出来なかった幾つかの新しい試みも可能となりそうだ。ただ、これをどの様にブランクの性能向上に結びつけるかという点については、もう少し時間をかける必要があると思っている。でも、きっと近いうちにイノベイティブな次世代のハイ・パフォーマンス・ブランクが提供出来ると思うよ。

エピソード1からエピソード7まで、全編に共通して言えるのは、情熱こそがゲイリーの原動力である、ということではなかろうか。そして、その情熱は今も変わっていない。彼は、常に新しいマテリアルを探し続け、そのマテリアルを活かすための製法を研究し続けている。

名実ともに世界で最も多くのブランクを創りだしてきたゲイリー・ルーミスが自らの経験とネットワーク力を結集して、新たに始めた新プロジェクト、それがノースフォークコンポジットだ。

彼のゴールは極めてシンプル。全てのアングラーに釣りの楽しさを提供すること、ただそれだけだ。

出典:

Gary Loomis Interview Part 1 – The Legend Lives (much to our relief)
http://www.tackletour.com/reviewinterviewgaryloomis.html

Gary Loomis Interview Part 2 – The Legend Lives (much to our relief)
http://www.tackletour.com/reviewinterviewgaryloomispart2.html